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2006年07月22日

ご縁とシンクロニシティ

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 銀河系の中心とさそり座

 これからも、この本物の夜空を
 見ることのできる島であってほしい…

 /波照間島:2004年夏
 
 
 
 
シンクロニシティ(共時性:意味ある偶然の一致)を
特に感じるようになったのは、ここ2~3年だろうか。

ここ数年は特に、
沖縄のことや、自然体験活動に関して起こることが多いような気がしている。
 
 
子どものころからの憧れの島だった沖縄の離島へ通うようになったのも、
そこから広がるご縁も、
ネイチャーゲームにかかわることになったり
(今度仕事としてもやらせてもらえそうなチャンスが!)
自然学校へ通うことになったのも、
人との偶然の出会いが大きな要因となっている。

 
 
普段は無宗教のクセして、そういう体験をしたときだけ、
「神様のお引き合わせかもしれない」なんて思ったりする。
 
 
そんな偶然の出会いの中でも、
私の今までの人生でもひときわ衝撃的な印象を持っている出会いであり、
かつ、もし前世があるとしたらきっとどこかで一緒だったに違いないと
思わずにはいられないご縁がある。
 
 
その人とは年は母子くらい離れていて、まだ数えるくらいしか会ってはいないのだが、
ずっと以前から知り合いのような感覚がある。
不思議と意気投合してしまったのだ。
 
 
接点は、沖縄の波照間島だ。
もし前世があるなら、あの島でともに生きた時代があったかもしれないと
勝手なことを思っている。
 
  
今年に入ってからだろうか、
「今年は、一緒に波照間島に行きたいですねー」と
どちらからともなく話題になっていた。
 
「秋くらいにどうでしょうね?」と少々具体的にもなってきていた。
 
 
それが突然、3日前の2時間ほどで、話が急展開し、
この夏形を変えて実現することになってしまった!
  
 
3日前、たまたま自宅で仕事している日だった。
その人からメールが入ってきた。
 
「あなたが夏に行く時期と同じ時期に、
島の知り合いを訪ねる約束を、今した。
これから飛行機の空席を探す。」
 
というのだ。
 
 
すぐにこちらの旅の行程、特に行きの飛行機の便などを知らせた。
あちらはあちらで、他にも寄る予定があるらしく
いろいろスケジュールを調整して旅行会社に相談していたらしいが、
2時間後・・・。
 
 
なんと、同じ日の同じ飛行機が取れたという。
島に上陸すれば、泊まるところは別で、それぞれにそれぞれの用事もある。
よって、島へ一緒に上陸することにはなったが、
当初予定していたようなずっと一緒の旅ではない。
 
 
しかし、小さな島のこと。
滞在中に必ず島で再会して、ともに過ごす時間を持つことになるだろう。
  
それだけであっても、私はなぜかとてもうれしいのだ。
念願かなったり!という気持ちで、大げさだが感動にも近い思いがある。
 
 
そしてもう少しよく聴くと、
後半はあちらが先に島を離れて他所へ立ち寄るのだが、
なんと、伝えていなかった帰りの飛行機の時間まで一緒だった!
 
 
もう、びっくりなのである。
 
 
今年で3回目となる波照間島旅行。
訪れるたびに、予想していなかったサプライズを体験するのだが、
今年は行く前からそれが始まってしまっている。
 
 
行ってからもまだまだ何かが起りそうな気がしてならないワクワク感でいっぱいだ。

2006年07月19日

「つながり」について再び

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 ビルと排気ガスの道路に囲まれた
 都心の植物園でも
 自然の営みは続いている 
  
 
 /小石川植物園:2006年春

 
 
 
 
感じたり考えたりしたことを、とりとめもなくつらつらと・・・
 
 
 
先日の自然学校と環境教育に関するシンポジウムで、
「ESD(持続可能な開発のための教育)」という言葉の他に
「環境教育推進法」という言葉を聞いた。
 
シンポジウムでは、企業も個人もあらゆる人がその対象となると聞いた。
 
 
いったいそれは、何だろう?と調べてみた。
  
   環境の保全のための意欲の増進及び環境教育の
   推進に関する法律(環境保全活動・環境教育推進法)
 
     地球温暖化や廃棄物問題、身近な自然の減少など、
     現在の環境問題を解決し、持続可能な社会を作っていくためには、
     行政のみならず、国民、事業者、民間団体が
     積極的に環境保全活動に取り組むことが必要です。
 
(環境省ホームページより http://www.env.go.jp/policy/suishin_ho/index.html)
 
 
「持続可能な社会」という言葉は、エコロジーの関係か何かで聞いたことがあったが、
こんな決まりがわが国にできていたとは知らなかった・・・。
 
 
普及用パンフレット(http://www.env.go.jp/policy/suishin_ho/pamph_suishin.pdf)を見たら
 
  「つながり」に気づき、あなたから始めよう
 
というキャッチフレーズがあった。
 
 
 
 
そっか・・・
このブログのカテゴリーの1つ「人と自然・世界・そして…」、
私が関心を持っていきたいと思っていたことの1つが、
そこでいう「つながり」に近いのかもしれないと思った。
 
 
 
 
しかし、「つながりに気づこう」とお題目を唱えたって、
今はそれが難しい世の中だ。
 
「自然」と「人の暮らし」が離れすぎてしまっている。
暮らしの中に自然が少なすぎるから、
自分の行いが自然にどう影響するかもわかりにくいような気がする。
  
離れているから求めたくなり、
連休ともなるとあちこちに渋滞が起こり、排気ガスにまみれて、
みんなわざわざ自然に出会いに出かけていく。
 
私だって、身近に自然はある方だが、それだけでは満足できず
わざわざ「自然学校」に通う。
 
昔にもどれとは言わない。
だけれども、今みたいな暮らし方で本当にいいのだろうか?とも思う。 
 
 
 
 
先日のシンポジウムで聞いたのだが、
今、「自然学校」(というそのものの看板をあげていないものも含む)は、
世界的に増えているのだそうだ。
 
先進国だけでなく、途上国にさえあるという。 
それだけ、“人間にとって”自然と暮らしが離れてきてしまっているのだろうか?
 
 
 
 
また、国内の過疎地や里山など自然が豊かなところに住んでいる子どもたちは、
案外自然と触れ合っていないのだそうだ。
 
身近に自然があっても、自分が関心を持たない限り、
自分とはつながらないのかもしれない。
 
 
 
 
そんな時代だからこそだろうか、
明治・大正時代に提唱され、当時は早すぎたであろう自然との付き合い方が
今見直されてきているという。
 
昨日たまたま見たテレビ番組で、それを知った。
岡崎文吉という治水技術者の「自然主義」という考え方だ。
 
簡単に言うと、川は本来蛇行する性質を持っている。
それをまっすぐにしてしまうのではなく、
本来の川の性質をそのまま活かし、
決壊しやすい不都合なところにだけ人工的に補強をする。
という考え方だ。
 
http://www.c-museum.jacic.or.jp/c-museumn/ijin/ijin01.html
http://www.taisei.co.jp/cmtime/column/tachi/2006/0302.html
 
当時、石狩川でその実験が行われたが、その後日本にほとんど広がることはなく、
後に海外で評価され、今日、自然水理学として高い評価を受けているという。
世界でも有数の大河川ミシシッピ川の治水工事手法として採用され、
アメリカでは今もなおその手法での事業が行われ続けているらしい。
 
自然を支配するのではなく、
自然の特質をわかった上でうまく付き合う知恵が、
こうやって受け継がれてきているのはすばらしい。
 
 
 
 
知恵が受け継がれていくといえば、またシンポジウムでの話に戻るが、
こんな話題も出てきた。
 
山村のおじいさんおばあさんは、
あと20年もしたら大半がこの世からいなくなってしまう。
それまでに誰かが受け継いでいかないと、
古くから(ものによっては縄文の時代から?)培われてきた
暮らしの知恵・自然と共生する知恵が永遠に消えてしまうかもしれない。
(伝統・文化などもそうだろう)
 
実際にそういうことはすでに起こっている。
 
私が好きな沖縄の離島では、
過去に繰り返された強制移住や、戦争マラリア、産業の変化などにより
脈々と歌い継がれてきた「うた」の多くがすでに失われてしまっている。
 
祭りの出し物も過去の記録と照らし合わせると確実に数が減っている気がする。
人が足りないからだ。
農耕儀礼も簡略化されてきた。
それでは生きていけない経済サイクルに飲み込まれたからだとも聞く。
後継者不足で祈りの言葉が消えていく。 
方言を話せる人も減ってきているという。
 
今年の夏もそこを訪れる予定だ。
部外者であるが、おせっかいながらも何かしたいという気持ちにもなる。
 
 
 
 
「つながり」、「つなげる」、「つながる」、「うけつぐ」・・・このところいろいろ考えさせられる。

2006年07月17日

体験がつながっていった一週間

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 体験したすべては
 どこかでつながっていくのかもしれない
 
 
 /静岡県芝川町:2006夏

 
 
 
 
 
先週末から、いつもにもまして「自然」が身近だった。
そして、それらは、幾筋ものつながりの糸で結ばれていった・・・。

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7月8日(土)、9日(日):

 自然学校。キャンプ実習。
 テント設営、カヌー体験、魚をさばいて串に刺して火で焼く、
 ロープワーク、火おこし・・・しかも雨天のキャンプ。

 自分たちで資材運びも準備もせねばならない。

 ・・・重い、面倒、きつい。

 だからこそ、その後の喜び、楽しさが身にしみる。

 日ごろ「苦労する」ということから少し逃げてはいなかっただろうか?
 苦労があるからこそ、その先にある喜びは大きいことを
 忘れてはいなかったか?


 
 そこそこやれるんだ!私。

 テント設営も、火おこしも、あるだけの材料でレシピを思いつくことも、
 意外とキャンプの歌や踊りを結構知っていたり、
 ロープワークだって器用でスピーディだ。

 それらはすべて、
 子ども時代から今まで生きてきた経験の中に 「資源」があって
 ここしばらくは使わないで眠らせていたものだ。

 だけど、たくさん持っているものがある。
 
 
 
 ・・・そんなことに気づかせてもらえた。
 
 
 
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7月14日(金)
 
 ある本屋に立ち寄った。

 偶然見つけた本は、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」
 
 子どもたちが「神秘さや不思議さに目を見はる感性」を、
  いつまでも失わないでほしい
 という願いをこめた、彼女の遺作だ。

 平積みになっていて、私の目に飛び込んできた。

 その日は、手にしただけだったが、その後、ずっと心に引っかかった状態になった。
 


 16日に別の本屋へ行ったときに探してみた。
 残念ながら、そこでは品切れ中だった。

 月末に、またあの本屋へ立ち寄る予定がある。
 その時は、買おう。
 
 
 
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7月15日(土)

 ネイチャーゲームの合宿で一緒になった仲間たちと、
 施設見学。

 子どもたちが暮らす施設で、
 ボランティアでネイチャーゲームをやれないか?
 というのが、ことの発端。

 緑が豊かな敷地で、子どもたちにどんなことを体験してもらえるだろうか?

 見学の後、ランチを食べながら、
 みんなで早速プログラムを組み立てる。

 あれやこれや、知恵を出し合うと素敵なプランができあがる。
 
 
 
 解散後、帰り道と反対方向の電車に乗り、海まで足を伸ばす・・・。

 波打ち際でサンダルを脱ぎ、パンツのすそをめくり、
 素足でずっと海岸を歩く。
 
 
 
 波がとても高い。この浜辺で初めて見るパワフルな波だ。
 どどどーーー、どうどう、と、
 海は低く激しい叫び声をあげ続ける。

 見上げるとかなとこ雲の端っこが、太陽を隠そうとしている。
 北の遠くの町の方は真っ暗だ。

 雷の音が鳴っていたとしてもかき消されているほどの
 波の激しい音。

 そんな海を小一時間ばかりぼんやりとながめた。

 そろそろ帰ろうと、駅に向かった。
 海岸沿いの道路まで戻ってきたら、
 海からそんなに離れていないのに、
 あんなに激しい波の音も
 車のエンジン音や店の音楽にかき消されもう聞こえない。

 なぜか、
 石垣島で、夜の海にカヤックを漕ぎ出し、
 夜光虫と天の川を眺めながら聞いた、
 はるか遠くから静かに響いてくる
 リーフに崩れる波の音を思い出した。
 
 
 
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7月16日(日)

 自然学校と環境教育に関するシンポジウムに行ってきた。

 ESD(Education for Sustainable Development
    :持続可能な開発のための教育)に
 自然学校がどのように寄与していけるかというテーマだった。

 今年お世話になっている自然学校の代表や他の自然学校の人たちが
 どんなことを話されるのか興味を持ったのだ。
 
 
 
 先週の自然学校のとき、スタッフの人に学校の始まりの話を聞いた。
 アジアの国などをめぐっていた時期がある代表は、
 それらの国の人たちが、
 衣食住に関することを自分たちの手作りでまかなっている姿を
 見たのだそうだ。

 それを大切に思い、開校して25年以上経つこの学校では、
 今も、その精神を大切にし、
 自分たちでやれることは自分たちの手でやるという方針があるのだという。

 言われてみれば毎月訪れるたびに、どこかが変わっている。
 それはみんなスタッフや協力者の人たちによって作られていく。
 
 テント用のウッドデッキであったり、山の斜面の木道であったり、
 養蜂箱だったり、そこから採れた蜂蜜だったり、
 食卓にのぼる季節ごとの新鮮野菜だったり・・・。
 
 人の手で、人間のスピードで、ゆっくり環境が整えられていく。
 
 
 
 そもそも「ESD」という言葉は、こんな経緯で生まれてきたそうだ。

 近年の地球的規模の環境問題の発生の一方、
 これから豊かさを目指そうとしている発展途上国が開発を行うにあたって、
 破壊なき開発(Development without Destruction)がテーマとなったが、
 先進国にも用いられるような言葉はないのだろうか?
 ということで、「Sustainable Development」という言葉が生まれてきたらしい。

 そのための環境教育を意味するのが「ESD」だと、今回理解した。
 
 
 
 自然体験は、環境教育の基礎だろうとパネリストの誰かが言っていた。
 
 小さいときに自然体験をたくさんした子ほど、
 環境教育や、環境保護活動にたずさわる。
 両親がたくさん自然体験をしたことのある親の子ほど
 上記と同じ傾向がある。

 そして、自然学校が子どもたちにどんな効果をもたらすかについては
 子どもたちを追いかけるところまではしていないけれど、
 今、自然学校をやっている人たちが、どういう人生の積み重ねをしてきたかは
 さかのぼることができる。
 
 そこに答えが見つかるかもしれない、と。
 
 
 
 そしてさらに、こんな話も出てきた。

 レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」で訴えたように
 できるだけ年齢が小さく感性が鋭いうちに
 そういう教育をする必要がある。と。
 
 
 
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・・・この一週間で体験したことは、すべてつながっていて、
私に、「それらの体験から自分なりの答えを見つけよ」と、
訴えかけてきているようにも思えてならない。

2006年07月07日

七夕

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 わし座のアルタイル星(彦星) 


/波照間島2004年夏


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 こと座のベガ星(織姫) 


/川崎市内2004年夏





2日ほど前だっただろうか・・・。

雨が降りしきる中、
駅前の花屋からピンク児に白い花柄のレインコートを着た少女が、
透明ビニールに包まれた自分の背丈くらいの長いものを持って
ニコニコ顔で出てきた。

 

よく見るとそれは、七夕飾り用のササだった。

 

少女がうれしくて自分で持っていたい様子を、
後ろから母親が温かく見守っていた。

 

・・・今日は七夕。
あの少女は、どんな願い事を書いたのだろうか。

 

あいにくの空模様だが、
雲の上では彦星と織姫が再会を喜び合うことだろう。

 

私もたまには純真な気持ちで、
夜空に願いをかけてみようかな・・・。

 


2006年07月01日

ベランダの小さな世界

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 小さくたって一人前


/ベランダにて:2006夏







6月の半ば頃気がついたのだが、
ベランダの鉢植えに、カマキリの子どもが住みついている。

 

もうかれこれ2週間が経つ。

体長は頭から胴体の先までまだ1.5cmほどだ。

私が顔を近づけると、
顔をこちらに向けて警戒して、カマに力がこもる。

小さくても、いっちょまえに大人のカマキリと同じ形をして、
同じような態度をとるから面白い。

 

うちは、マンションの2階。
どこからどうやって、ここにたどり着いたのだろう?
とても不思議だ。

 

しかも一匹ではない。
多い日は3匹見つけたことがある。

ここ2~3日は1匹だ。
他の仲間はどこへ行ったのだろう?

 

2週間、時々見ていたら、
少しずつだが大きくなっているようだ。
「ここ」で暮らしていける食べ物があるのだろう。

 

こんな狭いベランダの、
植木鉢のちっぽけな世界にも、
生物たちの営みがある・・・。