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2006年06月27日

たった一言がないために

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 そ~んなに
 アクセクしなくてもニャーァ・・・


/近所の散歩道:2003秋








今朝の電車の中での一コマ。

9時過ぎに千葉エリアに行っていなければいけなかったので、
通勤ラッシュの電車に乗った。

普通列車でも案の定混んでいる。

蒸し暑いし、気候もうっとうしいし、
そろそろ汗臭さも感じる季節という条件も重なってか、
あまり長く乗っていたくないと、私も感じる。

 


ある駅に電車が止まった時のこと。

 


乗換えのためにたくさんの人が降りようとした。

私も降りようとしたが、
前方で50歳前後のスーツ姿の男性が、
降りる人の流れに逆らってかたくなに自分の立ち位置をキープしようとしている。

もちろんその人は、左右からも後ろからも人にぶつかる。

後ろから右側を通ろうとした若いスーツの男性のカバンが引っかかった。

初老の男性は、何を思ったか、
やらなきゃいいのにその若者のカバンを乱暴に扱ったか、
若者をヒジでこついたかした。(「こつく」って方言?)

若者は、これまた言わなきゃいいのに
その男性に向かって「このハゲ!」とつぶやいて降りていった。

 


・・・なんというか、どっちもどっちですな。

毎日毎日仕事に追われ、こんなに混んだ電車に乗ってたらイライラもするだろうにと
同情の気持ちもないわけではないが、
こういうささいなことから、殴り合いになったり、
傷害事件に発展するんだろうなぁ。

そんな事例を、目の前で見させてもらった。

 


お互いに気に食わない相手にストレス発散の八つ当たりをしているようで、
とてもカッコ悪い。

初老の男性は、一旦降りるか、
もう少し流れにあわせて柔軟に動くかすれば、
自分自身にかかる人からの圧力はマシだろうに。

若者は若者で、「すいません、降ります」と先に言えば、
男性だって多少はゆずるかもしれなかろうに。

黙って人を押しながら降りて、「・・・まったく!」と思うより、
たった一言、先に「すいません、降ります」と言えば、
もっとストレスなくスムースに降りることができるのに。

 


人間、たいていの場合、
敬意を払ってもらったり、存在を認めてもらっていたら、悪い気はしない。

電車から降りるとき、
「すいませんが」と一言添えるだけで、
相手が自ら動いて空間を作ってくれることは多い。

それもままならないくらい混んでいる時は、
「すいません、“降ろしてください”」と周りに聞こえるようにお願いすると、
かなりの人たちが協力をしてくださる。

そんな時、バッグが人と人との間に挟まって身動きとれないときがある。
そういう時もバッグを引っ張りながら「バッグが・・・」と声に出して言うだけで、
該当する方は混んだ電車の中でも一生懸命身体を動かし
バッグが抜けるようにしてくださる。

協力してくださったら、
また一言「すいません」か「ありがとうございます」と言えばよい。

私はそうやって、さほどストレス無しに電車から降りて、
朝っぱらからいらぬエネルギーの消耗をしないですんでいるけれどなー。

 


それだけのことなのに、
黙って力任せにやろうとするから、
相手は「自分を大切に扱っていない、邪険に扱われた」と思うし、
そんなことする相手には仕返ししたり意地悪したくなったりもするものだ。

たったひとことを言うのがめんどくさいというストレスより、
言わないがために己に降りかかるストレスの方が
よっぽど質が悪くてイヤだと思うのだけれど・・・

2006年06月26日

いつもと同じ道で味わう、不思議な気分

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 洞窟から見た外の世界は
 とても新鮮に見えた


/火山性洞窟(青樹ヶ原樹海):2006春







ここ2~3ヶ月、特に先週1週間、
日頃いかにパターン化された硬直したものの見方をしているのかを
突きつけられるようなできごとと、
それにまつわって不思議な気分を味わう体験が続いた。

 


このところ、何年も歩きなれている道で、
今まで気づかなかった木々の存在が目に入るようになった。

この春、もっと自然とのかかわりを深めたり、自分の感覚を磨くために、
ネイチャーゲームのリーダー資格を取ったり、自然学校に通っていて、
木々への関心が高まってきているせいだろうか?

毎日歩く道ではないが、この地に越してきて5年。
木々はそのころからずっとそこにいたはずなのに、
風景の一部としてしか見ておらず、
その木の個性までまったく認識していなかった。

木の名前を覚えたり、観察したりして、その「個性」に気がついた後、
いつも歩きなれている道を歩いてみたら・・・

「ホウ」「カツラ」「コウゾ」「アオキ」「グミ」など、
自然学校の森の中で見たのと同じ仲間の木が、
それぞれが個別の存在として認識でき、
私の近所でも生きていることに初めて気がついたのだ!

そうなると「いつもの道」なのに、「いつもと違って」見えるから面白い。

 


ある駅のホームにて。

クリの木には雄花と雌花があり、雌花はイガの赤ちゃんになるのだと、
今月の自然学校で学んだ。
その時見た雌花は直径5mmくらいだった。

その駅のホームのフェンス越しに、すぐ目の前にクリの木がいくつかあった。
今まで、それらがクリの木だとはっきり意識したことはなかった。

じっくり見てみると、直径1.5cm~3cmほどの若葉色の柔らかいトゲをまとった
イガの赤ちゃんがたくさんついていた。

もうすでに、実りの秋に向けて自然は着々と準備を進めている。

私にとって○○駅はただの乗り継ぎの駅ではなく、
クリの木の生長が観察できる、季節の移り変わりを感じることのできる駅となった。

 


月1回ペースで行くある建物の部屋。
月1回といってもそこへもかれこれ5年近く通っているから、かなりの回数になる。

その部屋の壁は、単なるグレーの壁だとずっと思っていた。
先日、よく見ると壁ではなく4枚の扉になっている。
そして、小さく「配電盤(だったと思う)」と書かれている。

そうだったのか!
この部屋のこの壁の向こうには、まだ別の空間があるのか!

たったそれだけのことだったが、どうして今まで気がつかなかったのだろう?
よほどそこに無関心だったのか。
部屋の風景の一部としてしか認識していなかったのだろうか?

壁だと思っていたところが扉だったと意識し、
その部屋の向こうにまた別の空間があると認識して、
あらためてまじまじとその部屋を見ると、いつもと違った風に見えてきた。

 


こんな体験をするたびに、なんとも表現しがたい「不思議な気分」を自分の中に感じた。

それと似たような体験が、7~8年も前にもあった。

 


カウンセリングスキルを学ぶのと自分の問題をクリアにするために
カウンセリング養成学校で「クライエント体験」をしていたときのことだ。

自分の問題や抱えるテーマについて気づきが深まっていった頃、
やはり言葉では表現しがたい「不思議な気分」に襲われたことがあった。

それを、カウンセラーに話すと、
「その気分をしっかり覚えておきなさい。
 カウンセリングのプロセスではそういうことが起こることがあるから。」
と答えたことを思い出した。

 


今回の様々な体験と照らし合わせて、この「不思議な気分」はいったい何なのか、
私の勝手な解釈をしてみた。

どうやらそれは、自分の中での
 「ものの見方が変わったとき」
 「頭の中の地図が書き換えられたとき」
 「気づきを得たとき」
などにわき起こることがあり、
しかも、「あ!そうか!」と自分でわかったり説明できるレベルと違い、
「言語化できない深いレベル」で何かが変化したのではないだろうか?

そんな風に考えられないだろうか?

 


ひとことで「カウンセリング」といっても、その世界はとても広く深い。
私自身まだまだ勉強不足のところもある。

どなたかこういう「不思議な気分」について研究している人や著作を知っている人がいたら、
情報を寄せていただきたいと思う。

2006年06月19日

生きてきた証(あかし)

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 幾度もの噴火を重ね
 今の美しい姿になった


/夕暮れの富士山(江ノ島より):2003初秋







今日は月に一度のカウンセリング・グループスーパービジョンの日だ。
スーパービジョンの時もあれば、
その時出されたテーマをカウンセリングの観点から語り合うゼミのような時もある。


今回は、ご指導してくださっている二人の先生の片方が、
もう片方の大先生に対して投げかけた質問で盛り上がる。

  一つのケースに対して様々な技法や理論を持った複数の人が見立てると 
  時に互いにまったく違う、場合によっては相容れないような
  アプローチの方法が出てくることもあるが、
  それに対してどう思うか?

それに対し、大先生(80代のおじいちゃん:失礼!)は、
人生を積み重ねてきた人ならではの
深みのあるまた非常に柔軟な視点で話をしてくださった。
(おおよそ以下のような意味だと私は受け取った)


  自分が学んできたもの、自分のスタンスから見ると
  違っていたり相容れないものであったとしても、
  突き詰めていけばそこに共通点が見られる場合もある。

  自分のスタンスや持っている知識・経験だけにこだわると
  他の様々なものの見方ができなくなる危険がある。

  簡単に「正しい/間違っている」「合う/合わない」と判断せず、
  そこから湧きあがってくる疑問やモヤモヤしたものと
  向き合うのも大切ではないだろうか。


なるほど、もっともだ。

様々な技法や理論は全て、「人間」をそれぞれの角度から見たものであり、
見る角度が違ったら見え方は違って当然だが、
それらの本質は「人間」という共通したものであるから
突き詰めていくとどこかに接点や共通点があるのだろう。



ひとしきりこの話題が終わった後、別の人がその大先生に尋ねた。

  「先生は、とても柔軟な方ですが、どうやったらそんな風になれるのでしょうか?」と。

先生は答えた。

 「そういわれても自分では自分ことはよくわからない。
  1日2日でこうなったわけでなく、人生のどこかにきっかけはあるのだろう・・・。」

それから、先生の自己分析が始まった。


幼い頃の家庭の中での自分の役割、
友人たちとの付き合いの中でしらない間に決まっていった自分の役割、
カウンセリングを通して身につけてきた「カウンセリング・マインド」も
影響しているだろう・・・などなど。

お話を聞いていると、
まさに今までその先生が生きてきた積み重ね、経験の積み重ねによって、
今目の前の姿があるのだということがよく伝わってきた。


80を越えても、自分の限界を認識するにとどまらず、
まだあるであろう可能性を信じそれを花開かせるために、
日々ワクワクした気持ちを自家発電しながら生きて行きたいと熱く語られる言葉には、
思いがたくさん詰まっていた。

そこにもまた、この先生の「生き様」を垣間見た気がした。


一般論的な講義では物静かな淡々とした調子だが、
先生個人の価値観、思いを語ってくださる時は別人のように饒舌に熱くなる。

様々な経験談、熟された知識や知恵を、あふれんばかりに語られる時、
本当にイキイキとされている。

これからもぜひ長生きして、私たちにたくさんのことを伝えていただきたい。
たくさんのことを先生から学びたい。

そして私も、
それまでの生き様や生きてきた証に責任と誇りを持って
いずれ出会うであろう意思を継ぐ人たちへ伝えられるような人になりたい。

そんな気持ちになった一日だった。

2006年06月03日

ゆるゆるコミュニケーション・ワーク

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ほころび始めた蕾はやがてゆるやかに開き…
/向ヶ丘遊園バラ苑:2005初夏






今日から、毎月第1土曜日(8月はお休み)開催の、
コミュニケーションにとてもとても苦手意識を持っている人たちのための
グループ体験学習がスタートした。


主催は、私もメンバーであるキャリアカウンセラーのグループ。
いままでも「再就職のためのコミュニケーション・スキルアップ講座」などをやってきたが、
もっと基礎的な部分に焦点を当てたワークショップは、
我々にとっても初めての開催だ。


目指したいゴールはあるものの、
実際にふたを開けてみたらどんな風になっていくのか、我々にもわからない。





ワークショップの名前は
「対人スキルアップセミナー」とお堅いのだが、
内容は、「ゆるゆる、ゆっくり」だ。


硬く小さな花の蕾が、
おだやかな日の光をそうっとそうっと浴びながら、
ゆっくりゆっくりと花びらをほころばせていくような、


ビックリして身を縮めたデンデンムシが、
そろりそろりと身を伸ばし、目を出し、
やがてゆっくりゆっくりと前進していくような・・・





本日初回は、「心と身体の緊張をほぐす」日。


心と身体は一体だ。
身体をゆるめることで、心もゆるむ。
心がゆるむと、身体もゆるむ。


体を動かしているうちに笑顔もこぼれ、ともに笑い、場が和やかになる。





互いを知り合う会話は充分に緊張が解けてから。

自分自身についての悩み、課題が語られる。


「これなら続けられそう」と帰り際のリラックスした姿。
次回の再会を約束して、笑顔で終了。





よかった。我々も「この調子でやっていけばよさそう」と手ごたえを感じる。





   対人緊張のある人や、自分に自信がない人などが、
   気楽にトライ&エラーをやれる場、


   まだまだ成長途上の自分の足りないところを責めるのではなく
   できたことを互いに喜び合える場、


   同じ悩みや思いを持つ人同士が本音で語り合える場…


   その人にとって安心できる居場所がもう一つできたと思える場…




そんな場になっていくようにと願う。





★「対人スキルアップセミナー」詳細

http://www.le-leve.com/2006workshop.pdf

2006年06月02日

人の中で自分に気づく

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芽生え(ブナの新芽)
/青樹ヶ原樹海:2006春





民間相談所でやらせていただいている、
「女性のためのよりよい人間関係ワークショップ」2006年上期が終わった。


半年間1クールで上期4回、下期4回、連続受講も単発受講も可能という、
毎回読みきり漫画のようで、なおかつ上期、下期にそれぞれの流れがある。


この上期から参加していた方にとっては、4回のまとめ、
去年の下期から参加していた方にとっては、全講座の総まとめの日だった。


上期から参加した方の中には、
もっと実践できるように後期も続けたいと言ってくださる方がでてきた。


昨年の下期からの参加の方は、
この一年間での自分が成長したことに気がつき、
また、それを今回のワークのメンバーからのフィードバックで気づかされたと語った。





今回の最終回に限らず、
グループワークならではの他者とのかかわりを通して自分自身への気づきを深め、
人はそれぞれ多様で違っていていいのだ、私は私でいいのだ
ということを実感していただけたなら
講座を担当させていただいた甲斐がある。





「人間関係は、人間関係の中でしか学べない」
と、私が長年学んできた先生はおっしゃる。


たとえ人間関係の本を読んでわかった気になっても、
実際にできるかどうかは別問題だ。


実際の人間関係の中で、
最初はもしかしたらいちいち考えながらしかできないかもしれないことも、
失敗や手ごたえを感じながら実践を積み重ねていくことで、
いつの間にか自然にできるようになっていく。


そのためには、様々なタイプの「他者の存在」が必要なのだ。


いろいろな個性があつまる人間関係ワークショップは、
グループワークならではの人間関係の体験学習の場だ。





この日は2つのワークを行った。





一つは、大切にしたい価値観についてのワーク。


大切にしたい価値観は、人それぞれ違うということ、
そしてまた、価値観を表す様々な言葉について
人はそれぞれに違うイメージを抱いているということ、
それらは語り合うことで相互理解が深まるということを、
ワークを通して実感していただいた。


わたしたちは日頃、言葉を使って
自分というものを他者に伝えたり、他者を理解している面があるが、
同じ言葉を使っていても、
実はその言葉に全然違う意味合いやイメージを抱いていることがある。


例えば、学校について話題にしようとした時、
学生時代がとても楽しく、勉強も面白かった人と、
残念ながら楽しくない思い出や、勉強に苦しんだ思い出がある人とでは、
「学校」という言葉を発している時に浮かんでいるイメージや感情は違う。


それは、言葉の表面だけの会話では捉えられないこともある。
その人の生きてきた人生そのものが、その言葉の背景にある。
大切にしたい価値観であるほど、
その人のそれまでの生き様が反映されていると考えてもいいだろう。





もう一つは、しめくくりとしてのプラスのフィードバックによるエール交換。


大人になると、特に日本の文化では「ほめられる」という経験が少なくなる。
残念なことだと私は思う。
他者からの承認・賞賛は、「心の栄養」だ。
心が元気になる栄養で満たされていると、やる気や自信も出てくるものだ。


ワークの最中のメンバーは、
フィードバックするほうもされるほうもいい表情。
その場がとても暖かな素敵な雰囲気で満たされていた。


「恥ずかしいぃ・・・」などと照れながらも、
また新たな気づきを得たこともあったようだ。





一連の講座でのワークを通して芽生えてきた新たな成長の芽は、
これからのそれぞれの暮らしの中で育んでいくことになろう。


参加した方々のこれからの人生に幸多かれと願うとともに、
下期にまた再会できるメンバーや新たに参加するであろう人たちと、
今度はどんなグループができていくのか、
どんなプロセスを体験できるのか、
どんな気づきや成長を得ることができるのか・・・
今から楽しみだ。





★「女性のためのよりよい人間関係ワークショップ」

 http://ikeuchi.com/kazoku/ (東京家族ラボ)

2006年06月01日

自分らしくいられる居場所

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一人一人が輝く花
/向ヶ丘遊園バラ苑:2005年初夏






    A rose is a rose is a rose.
    バラはバラであるところのバラである。

    すなわちバラの花は、バラらしいときにバラの花としての価値があり、また美しい。(*1)






いろいろな勉強会や交流会に参加すると、
その「場の雰囲気」がいかに大切かを感じることはありませんか?

緊張感漂う場、自分とは合わない雰囲気の場、
そこに行くとなぜかホッとする場、和やかでゆったりした場・・・。

先日、私は印象深い場の体験をしました。
そこはまさに、「素直に自分のありのままでいられる安心感のある場」でした。



それはコミュニケーションの勉強会でした。
私は、先輩と二人で、
あらたにそこのファシリテーターを務めることになったのです。

その勉強会は3年ほど前から続いており、3年前から参加している人もいれば、
それ以降の参加、
半年ほど前から別のクラスにいて今回からこちらに合流してきた人たちなど、
その日顔を合わせたメンバーの経緯は様々でした。

互いを知り合う日ということで、
私達も含め一人ずつ自己紹介をしていきましたが、
それぞれの人からさまざまな悩み・課題、想いなどが語られました。



すでに顔なじみのメンバー同士が中心ということもありましたが、
そうでない人たちもいるにもかかわらず、みなさんとてもオープンでした。
自分のプラスの面もマイナスの面も率直に語る姿がありました。

そして自己否定的な発言をした人に対し、
「私にはそうは思えない」とすぐさま率直なフォローの発言がなされ、
それを受けたご本人は「そういっていただけたらうれしい」とまた素直にそれに返す・・・。
そんなやり取りがなされました。

周りで聞いている他のメンバーもそのやりとりを温かく見守っていました。
その人がその人らしくその場にいることを受け容れていました。



自分の職場や地域活動などで自分の意見や思いを言えなくなってしまった体験も、
数人から話がありました。
人によっては自分を抑えた人間関係のストレスから体調が悪くなったり、
自分に自信がなくなってしまった時期もあったとのことです。



そしてまた、「この場では、自分の話を聞いてもらえるから話せるのだと思います」
「ここにいると自分らしくいていいのだと思うから、ここに来ているのかもしれません」
といったような発言がなされました。
 
そのたびに、聞いているメンバー達も、
それに共感するようにうんうんと深くうなずいていました。



勉強会は、とてもあたたかな雰囲気に包まれたひと時でした。
春から新しい「グループ」になったばかりだけれど、
この会は今後もうまくいくだろうなと実感しました。



私が人間関係や交流分析等に関する勉強でお世話になっている先生は、
よく「グループの力のすばらしさ」について話されます。

交流分析の杉田峰康先生のワークショップでも、
先生とテーマ提供者による一対一のワークだけでなく、
先生は時々ワークを見守っている周囲の人たちの力も活用されます。
「大丈夫、あなたを見守っている村人たちがいますよ」
「村人たちの意見も聞いてみましょう」といった形です。

私が体験した場、先生方のお言葉、いずれの場合も、
グループ内が言葉や態度によるプラスのストローク(*2)に満ち溢れていることの大切さを
物語っているといっていいでしょう。
  (*2)「心の栄養」にたとえられる、人と人とのふれあい


「そこにいくと気負わないでいい。素の自分でいられる。」
「そこには自分の居場所がある。」

・・・そう実感できる「場」を大切にしていきたいものですね。

そしてまた、
誰かの大切な「居場所」を構成する一員として存在する
自分自身でもありたいものです。



(「交流分析メールマガジン」126号コラムに加筆・修正)




(*1)「ゲシュタルト・セラピーの人格論」 倉戸ヨシヤ・倉戸由紀子著 
    関西カウンセリングセンター発行 より

ゲシュタルト療法提唱者であるフリッツ・パールズは、ガートルード・ステイン(Gertrude Stein 1874-1946)の詩「Sacred Emily(1933、著書「Geography and Plays(1922)」に収録)」のこの一説を引用し、健康で成熟した人格について上記のように説明している。
本来、詩では最初の「ローズ」は女性の名前のようだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rose_is_a_rose_is_a_rose_is_a_rose