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いつもと同じ道で味わう、不思議な気分

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 洞窟から見た外の世界は
 とても新鮮に見えた


/火山性洞窟(青樹ヶ原樹海):2006春







ここ2~3ヶ月、特に先週1週間、
日頃いかにパターン化された硬直したものの見方をしているのかを
突きつけられるようなできごとと、
それにまつわって不思議な気分を味わう体験が続いた。

 


このところ、何年も歩きなれている道で、
今まで気づかなかった木々の存在が目に入るようになった。

この春、もっと自然とのかかわりを深めたり、自分の感覚を磨くために、
ネイチャーゲームのリーダー資格を取ったり、自然学校に通っていて、
木々への関心が高まってきているせいだろうか?

毎日歩く道ではないが、この地に越してきて5年。
木々はそのころからずっとそこにいたはずなのに、
風景の一部としてしか見ておらず、
その木の個性までまったく認識していなかった。

木の名前を覚えたり、観察したりして、その「個性」に気がついた後、
いつも歩きなれている道を歩いてみたら・・・

「ホウ」「カツラ」「コウゾ」「アオキ」「グミ」など、
自然学校の森の中で見たのと同じ仲間の木が、
それぞれが個別の存在として認識でき、
私の近所でも生きていることに初めて気がついたのだ!

そうなると「いつもの道」なのに、「いつもと違って」見えるから面白い。

 


ある駅のホームにて。

クリの木には雄花と雌花があり、雌花はイガの赤ちゃんになるのだと、
今月の自然学校で学んだ。
その時見た雌花は直径5mmくらいだった。

その駅のホームのフェンス越しに、すぐ目の前にクリの木がいくつかあった。
今まで、それらがクリの木だとはっきり意識したことはなかった。

じっくり見てみると、直径1.5cm~3cmほどの若葉色の柔らかいトゲをまとった
イガの赤ちゃんがたくさんついていた。

もうすでに、実りの秋に向けて自然は着々と準備を進めている。

私にとって○○駅はただの乗り継ぎの駅ではなく、
クリの木の生長が観察できる、季節の移り変わりを感じることのできる駅となった。

 


月1回ペースで行くある建物の部屋。
月1回といってもそこへもかれこれ5年近く通っているから、かなりの回数になる。

その部屋の壁は、単なるグレーの壁だとずっと思っていた。
先日、よく見ると壁ではなく4枚の扉になっている。
そして、小さく「配電盤(だったと思う)」と書かれている。

そうだったのか!
この部屋のこの壁の向こうには、まだ別の空間があるのか!

たったそれだけのことだったが、どうして今まで気がつかなかったのだろう?
よほどそこに無関心だったのか。
部屋の風景の一部としてしか認識していなかったのだろうか?

壁だと思っていたところが扉だったと意識し、
その部屋の向こうにまた別の空間があると認識して、
あらためてまじまじとその部屋を見ると、いつもと違った風に見えてきた。

 


こんな体験をするたびに、なんとも表現しがたい「不思議な気分」を自分の中に感じた。

それと似たような体験が、7~8年も前にもあった。

 


カウンセリングスキルを学ぶのと自分の問題をクリアにするために
カウンセリング養成学校で「クライエント体験」をしていたときのことだ。

自分の問題や抱えるテーマについて気づきが深まっていった頃、
やはり言葉では表現しがたい「不思議な気分」に襲われたことがあった。

それを、カウンセラーに話すと、
「その気分をしっかり覚えておきなさい。
 カウンセリングのプロセスではそういうことが起こることがあるから。」
と答えたことを思い出した。

 


今回の様々な体験と照らし合わせて、この「不思議な気分」はいったい何なのか、
私の勝手な解釈をしてみた。

どうやらそれは、自分の中での
 「ものの見方が変わったとき」
 「頭の中の地図が書き換えられたとき」
 「気づきを得たとき」
などにわき起こることがあり、
しかも、「あ!そうか!」と自分でわかったり説明できるレベルと違い、
「言語化できない深いレベル」で何かが変化したのではないだろうか?

そんな風に考えられないだろうか?

 


ひとことで「カウンセリング」といっても、その世界はとても広く深い。
私自身まだまだ勉強不足のところもある。

どなたかこういう「不思議な気分」について研究している人や著作を知っている人がいたら、
情報を寄せていただきたいと思う。

コメント

いい時間を過ごしているんですね。

鳥も名前がわかると、ただの「鳥」が「シジュウカラ」になったり「ヒヨドリ」になったり。

植物はさらに季節を感じられるからいいですね。

ちなみに私の親友はネイチャーゲーム研究所にいます。

うん、うん、そんなこと、あるある。

目には映ってるけど見えてなかったものが見えてくると
世界が変わるよね。

私も最近、近所の道端にも
無限のワンダーランドがあるなぁと感じてます。
「センス・オブ・ワンダー」って
こんな感じなんだろうなって思います。

>あがわん

そうそう、鳥もそうですよね。
家の近所でも「コジュケイ」「コノハズク」の声、
そして「オナガ」の姿は識別できるようになりました。

そのお友だちに、機会があったらお目にかかってお話をうかがいたいものです。


>Norioさん

「目には映ってるけど見えてなかったものが見えてくる」・・・

そうそう、まさにそんな体験!
今までは、ただ目に「映ってた」だけだったんですよねー。

身近な場所でも目を向ければ驚きがいっぱい!
「センス・オブ・ワンダー」の感覚が研ぎ澄まされていくと、
ありふれた毎日が楽しくなりますよね!

それって、悟りというやつでないかい?
すげーなー!

>もとぴ

いやぁ・・・、それがわからんのだよ。
兄さん、何ぞ知ってることはおまへんか?

 文書面でよければ、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「悟り」を読んでみれば。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A

 集合的無意識だとかそういうのに近いんで無いの?

>もとぴ

おおきにー。

早速見てみましたが、心理状態そのものについてはあまり触れられておりませんでした。

一ヶ所
 ★ヒンドゥー教(バラモン教)

 悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、
 光明と呼ばれる。

という解説がありましたが、今回の体験はちょっと違う感じ。


かつて体験したことの方が「それ」に近いかも。


強烈な光に包まれるというか雷に打たれたような感覚で、
天から降ってきたようなワンフレーズをひらめいたことや、

ウツウツと長い間悩んでいたが、
行動を起こしてその悩みそのものが消えた時、
散歩中に目にした木々や草花が、
とてもキラキラと輝いて見えて、
「世界はこんなに美しかったのか!」と感激した体験があります。

What a wonderful world です。

追記:

ウィキペディアの全然関係ないところに反応。

  悟り(さとり)は、菩提・開悟・阿耨多羅三藐三菩提
  (あのくたらさんみゃくさんぼだい、Anuttara samyaksaMbodhi)
  ・無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)ともいう。

レインボーマンが唱えていた言葉は、これだったのかぁ!!

↑そうなのよ。
出鱈目に唱えていたわけではなかったのよねー。
 ヤマトタケシ氏、よく覚えはったことです。

ちなみに「モスラのテーマ」は出鱈目だそうです。

 ウィキペディアは「百科事典」なので、心理状態とか経験値とかは書きにくいかと。体験談はやっぱり、個人のものでしょうからねー。
 

>もとぴ

彼は「ヤマトタケシ」・・・そんな名前やったのかぁ。


モスラのテーマは歌えません。

かわりに、回転する扇風機の前で、
「私たちの卵を返して下さい」とつぶやく
「ひとりザ・ピーナッツ」ならできます。


・・・って、どんどん脱線・・・。

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