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地の音、風の音、天(宇宙)の音

post44.jpg 風の音・波の音
 そして、
 過去から連綿とつながる
 祈りの声が
 島を包み込む・・・
 

 南風(パイカジ) : 2006年夏 波照間島 
 
 
 
 

映画「地球交響曲第六番 ~全ての存在は響き合っている ~」と
ミニコンサートの夕べに出かけてきた。
 
第六章のテーマは「虚空の音」。
 
音の表現者たち、音の追及者たちによる
様々な音が紹介されている。
 
また、その人たちの生き方、音についての考え方、感じ方などが
本人の語りによってなされ、映画は進行していく。
 
 


いろいろな言葉が心に残る。
そして、いろいろなことを考えさせられた。
 
監督は、公式ホームページで今回の映画を「音を観て、光を聴く」旅とたとえたが、
私は、映画とコンサートから触発されて、私自身への旅となった。
 
(以下、映画で本人が語った言葉から、私が受け止めたニュアンス)
 
 
●ラヴィ・シャンカール:シタール奏者
 
 「あれこれ気が多いと、何事も成されない。
  一つに的を絞って追求していくと、道が拓かれる」
 
   そうなんだよな・・・好奇心旺盛なのはいいけれど、
   何事も続けることが得意ではない私にとって、
   耳の痛いメッセージだった。
 
   一つのことに大成する生き方もあれば、
   マルチプレイヤーである生き方もありだと思う。
 
   ところでもし、私が的を絞るとしたら、それはいったい何なのだろう・・・?
   決める勇気は、手放す勇気でもある。
   何をわきに置いて、何に注力するのか・・・
 
 
   どれも手放せない強欲さがある。
   それは不安の裏返しか?
 
   子どもがいない人生に悩んでいた頃、ある人が私にこういった。
   「花はネルギーが集中するか分散するかで咲き方が違う。
   一輪の大輪の花を咲かせるか、小さな花をいくつか咲かせるか。
   どちらでもいいのだと私は思う。
   あなたの人生は、どちらを望むのか?」 と・・・
 
 
「インド音楽には譜面がない。
 師匠から直接口伝え・演奏を真似ることで学んでいく。
 それは、単に音楽を学ぶだけでなく、
 その背景にあるその国の文化や哲学なども全て受け継いでいくことなのだ。」
 
   そういえば、沖縄民謡の話でも似たようなことをきいたことがある。
   現在は「工工四」という譜面のようなものはあるが、
   従来はそのようなものもなかったのだと。
 
   師匠から肌で感じ体験から直接学ぶことの重要さにあらためて気づく。
   
   私が学んできたカウンセリングの先生方も、同じようなことを言っていた。
   「ここ(勉強会)」にある暖かい雰囲気を持った人が育ってほしいのだ、と。
 
   それは、頭に入れる知識ではない、体で覚える動作ではない、
   もっと根底にある大切なもの・・・。
 
 
●ケリー・ヨスト:ピアニスト
 
「音の“通り道”になりたい。
そのために自分を常に“浄化”し、“透明な存在”になりたいのです。」
  
   この人やシャンカールの話を聞いていると
   「音楽」とは、単に人間が聞こえる範囲の音や
   動物達がキャッチしているような範囲の音など、
   物理的に波長で計測できるような音とは違う、
   「天上界の音」とでもいうような、スピリチュアルなエネルギー的存在も
   この宇宙全体にたゆたいながら満ち溢れているように思えてくる。
 
   そして、真の作曲家、演奏家などは、
   それをキャッチして表現しているのではないかと思えてくる。
   
    「私」というある一つの人格の心を持ったこの肉体は、何の通り道の役割があるのだろう?
 
   そういうものがもしあるとしたら、
    「それ」が何ものにも邪魔されずに、
   すぅっと私を通り抜けて周囲へとひろがっていけるような生き方を
   私はしているのだろうか?
 
   恐れ、不安、執着、エゴなどから、
   その通り道の一つであるハートをゆがめたり閉じてしまってはいないか?
   健全な心を保ち健康的な体を保つためのメンテナンスを怠ってはいまいか?
     
 
「ここは、私の「ふるさと(“人生の原点”と私は解釈)」です。
音楽と出会うずっと以前から、
この川の流れの音が、私の中にあったのです。」
 
   私にとってそれは、風のささやき、鳥のさえずり、虫の音などだ。
 
   今住んでいるところは、窓を開けると住宅地でありながら、
   そういった自然界の音がわりとよく聞こえてくるところだ。
   今も、虫の音を聞きながら映画をふりかえっている。
    
   音だけでなく、
   四季折々の自然界の色や形の移り変わり、
   夕陽や雲の色、星空、花や草木の香り・・・
   そういうものたちに常に触れている人生でありたい。
 
   忙殺されて建物の中に閉じこもり、
   そういうものたちとのふれあいが減ってくると、
   また、身近な自然が破壊されている様に出会うと
   私はエネルギーをとたんに失うのがよくわかる。
 
 
 
●映画の後のミニコンサート
奈良裕之さん : スピリット・キャッチャー(ウインド・キャッチャー)、笛、他
KNOB(ノブ)さん : ディジュリドゥ(天然空洞木)、岩笛
 
 
二人の奏でる音に、自然と涙があふれてきた。
 
即興で心と音を合わせることで奏でられる旋律とリズム。
 
会場の雰囲気と、二人の気持ちとが呼応しあい生まれてくる、
二度と再現されない時間。
 
自分の心の奥の奥のほうの何かと共鳴したような時間。
 
 
奈良さんがスピリット・キャッチャーを旋回させうなる音を鳴らしながら、
祓い清めるように、または、
そこに集う人たちの心のエネルギーや
宇宙に存在する大いなるもののエネルギーを捉えるかのように
会場内を練り歩いた。
 
その音に、心の奥深くが共鳴するようなぞくぞくする感じを得た。
 
会場中ほどやや後ろの通路に座っていた私のところは、
ちょうどUターンポイントだったらしく、
私の頭上でしばらくスピリット・キャッチャーが回り続けた。
 
頭上に風を感じた。
 
それは、母方の実家(神社)で子どものころから幾度となく体験してきた
大麻(おおぬさ: 棒に紙垂をくくりつけてあるお祓いの道具)によって、
お祓いを受けるときに感じる風と同じように思えた。
それは懐かしさと同時に、神聖さと宇宙のエネルギーを感じる風だった。
 
 
KNOBさんのディジュリドゥから響き渡る低音は、
まるでチベット僧たちによる超低音の声明のようでもあった。
 
きっと、人間の耳には聞こえないレベルの低い倍音も
あたりに漂い体がそれをキャッチしていたことだろう。
 
時々祈るように、手を空に伸ばしながら演奏するKNOBさん、
瞑想状態になってるのではないかというような、独特の雰囲気があった。
 
この日は、奈良さん・KNOBさんは、低音の楽器と高音の楽器を用意していらしたが、
私の心身は、特に低音の楽器に共鳴したようだった。
 
 
ラストのほんの一瞬、
奈良さんが笛で伸ばしていたロングトーンの音に、
KNOBさんの岩笛が、少し低いところから徐々に同じ音に近づき、
ぴったり合わさったかと思ったら、高い音域へと超えていった。
 
そのときの、二つの音が合わさった時の音のパワーというかきらめきは、
その前後とは如実に違うのがわかった。
共鳴し、大きく鳴り響き、まるで光を放ったようになったのだった。
 
映画でいろいろな人たちが語ったり表現しようとしていた「虚空の音」の一つの形が、
宇宙に響き渡っている人間の耳には聞こえない音が、
一瞬そこに現れたような気がした。
 
 
コンサートが終わってから、
かつて、ブラスバンドに所属していた時、
仲間同士で楽器のチューニングを合わせた時にも、
同じような現象が起こっていたことを思い出した。
 
そのよう現象は、同じ音同士だけでなく、
いわゆる和音と言われる中でも心地よい和音の時も感じたことがあった。
 
逆に「不協和音」とでもいうような組み合わせの時は、響きあう波長もノイジーだ。
 
音と音とが共鳴する時もまた、
きっと人間の耳に聞こえているだけでない、
天空や宇宙に響いている音も聞こえているのではないだろうか・・・
 
そして、古の人が人間関係をも「ハーモニー、調和」とか「不協和音」と言うようにたとえたように、
人間の個々人が持つ音というのが実はあって、
それが調和しているか不調和なのかが「聞こえてくる」人もいるのかもしれない
などと思いをめぐらせてしまったひと時だった。
 
 
 
 
*余談1
 スピリット・キャッチャーの音、そして、奈良さんの動きを見ていて
 記憶の中にある「何か」と似ている、とずっと思っていた。
 
 ブログを書きながら、思い出した。
 
 スターウォーズでルークやダースベイダーが使う剣、ライトセーバーだ。

 似てないかな? 似てるような気がするんだけど・・・(笑)

  
*余談2
 その後の打ち上げ交流会に参加させていただいた。
 奈良さん御自慢の手作りカレーの美味しかったこと!
 
 野菜たちの命を最大限生かしたカレー。
 ニンジンもジャガイモも皮付き、オクラはヘタつき、しいたけは軸つき、
 ブロッコリーの太い茎もゴロンゴロンと入っていた。

 そして、ご飯には、第5番に登場する西表島の石垣金星さんの黒米が使われていた。
 
 奈良さん、KNOBさんとも少しだけだが話をさせていただいた。
 お二人とも、透明感のある人(変なたとえだが)だった。
 彼らを通して、様々な聞こえないけれど存在する音が、
 聞こえる「音」として私たちに届けられているような気になった。
 「音のチャネラー」・・・お二人と接して、そんな風に思った。

 機会があればまた、演奏を聴いてみたいと思った。

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