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体験がつながっていった一週間

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 体験したすべては
 どこかでつながっていくのかもしれない
 
 
 /静岡県芝川町:2006夏

 
 
 
 
 
先週末から、いつもにもまして「自然」が身近だった。
そして、それらは、幾筋ものつながりの糸で結ばれていった・・・。

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7月8日(土)、9日(日):

 自然学校。キャンプ実習。
 テント設営、カヌー体験、魚をさばいて串に刺して火で焼く、
 ロープワーク、火おこし・・・しかも雨天のキャンプ。

 自分たちで資材運びも準備もせねばならない。

 ・・・重い、面倒、きつい。

 だからこそ、その後の喜び、楽しさが身にしみる。

 日ごろ「苦労する」ということから少し逃げてはいなかっただろうか?
 苦労があるからこそ、その先にある喜びは大きいことを
 忘れてはいなかったか?


 
 そこそこやれるんだ!私。

 テント設営も、火おこしも、あるだけの材料でレシピを思いつくことも、
 意外とキャンプの歌や踊りを結構知っていたり、
 ロープワークだって器用でスピーディだ。

 それらはすべて、
 子ども時代から今まで生きてきた経験の中に 「資源」があって
 ここしばらくは使わないで眠らせていたものだ。

 だけど、たくさん持っているものがある。
 
 
 
 ・・・そんなことに気づかせてもらえた。
 
 
 
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7月14日(金)
 
 ある本屋に立ち寄った。

 偶然見つけた本は、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」
 
 子どもたちが「神秘さや不思議さに目を見はる感性」を、
  いつまでも失わないでほしい
 という願いをこめた、彼女の遺作だ。

 平積みになっていて、私の目に飛び込んできた。

 その日は、手にしただけだったが、その後、ずっと心に引っかかった状態になった。
 


 16日に別の本屋へ行ったときに探してみた。
 残念ながら、そこでは品切れ中だった。

 月末に、またあの本屋へ立ち寄る予定がある。
 その時は、買おう。
 
 
 
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7月15日(土)

 ネイチャーゲームの合宿で一緒になった仲間たちと、
 施設見学。

 子どもたちが暮らす施設で、
 ボランティアでネイチャーゲームをやれないか?
 というのが、ことの発端。

 緑が豊かな敷地で、子どもたちにどんなことを体験してもらえるだろうか?

 見学の後、ランチを食べながら、
 みんなで早速プログラムを組み立てる。

 あれやこれや、知恵を出し合うと素敵なプランができあがる。
 
 
 
 解散後、帰り道と反対方向の電車に乗り、海まで足を伸ばす・・・。

 波打ち際でサンダルを脱ぎ、パンツのすそをめくり、
 素足でずっと海岸を歩く。
 
 
 
 波がとても高い。この浜辺で初めて見るパワフルな波だ。
 どどどーーー、どうどう、と、
 海は低く激しい叫び声をあげ続ける。

 見上げるとかなとこ雲の端っこが、太陽を隠そうとしている。
 北の遠くの町の方は真っ暗だ。

 雷の音が鳴っていたとしてもかき消されているほどの
 波の激しい音。

 そんな海を小一時間ばかりぼんやりとながめた。

 そろそろ帰ろうと、駅に向かった。
 海岸沿いの道路まで戻ってきたら、
 海からそんなに離れていないのに、
 あんなに激しい波の音も
 車のエンジン音や店の音楽にかき消されもう聞こえない。

 なぜか、
 石垣島で、夜の海にカヤックを漕ぎ出し、
 夜光虫と天の川を眺めながら聞いた、
 はるか遠くから静かに響いてくる
 リーフに崩れる波の音を思い出した。
 
 
 
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7月16日(日)

 自然学校と環境教育に関するシンポジウムに行ってきた。

 ESD(Education for Sustainable Development
    :持続可能な開発のための教育)に
 自然学校がどのように寄与していけるかというテーマだった。

 今年お世話になっている自然学校の代表や他の自然学校の人たちが
 どんなことを話されるのか興味を持ったのだ。
 
 
 
 先週の自然学校のとき、スタッフの人に学校の始まりの話を聞いた。
 アジアの国などをめぐっていた時期がある代表は、
 それらの国の人たちが、
 衣食住に関することを自分たちの手作りでまかなっている姿を
 見たのだそうだ。

 それを大切に思い、開校して25年以上経つこの学校では、
 今も、その精神を大切にし、
 自分たちでやれることは自分たちの手でやるという方針があるのだという。

 言われてみれば毎月訪れるたびに、どこかが変わっている。
 それはみんなスタッフや協力者の人たちによって作られていく。
 
 テント用のウッドデッキであったり、山の斜面の木道であったり、
 養蜂箱だったり、そこから採れた蜂蜜だったり、
 食卓にのぼる季節ごとの新鮮野菜だったり・・・。
 
 人の手で、人間のスピードで、ゆっくり環境が整えられていく。
 
 
 
 そもそも「ESD」という言葉は、こんな経緯で生まれてきたそうだ。

 近年の地球的規模の環境問題の発生の一方、
 これから豊かさを目指そうとしている発展途上国が開発を行うにあたって、
 破壊なき開発(Development without Destruction)がテーマとなったが、
 先進国にも用いられるような言葉はないのだろうか?
 ということで、「Sustainable Development」という言葉が生まれてきたらしい。

 そのための環境教育を意味するのが「ESD」だと、今回理解した。
 
 
 
 自然体験は、環境教育の基礎だろうとパネリストの誰かが言っていた。
 
 小さいときに自然体験をたくさんした子ほど、
 環境教育や、環境保護活動にたずさわる。
 両親がたくさん自然体験をしたことのある親の子ほど
 上記と同じ傾向がある。

 そして、自然学校が子どもたちにどんな効果をもたらすかについては
 子どもたちを追いかけるところまではしていないけれど、
 今、自然学校をやっている人たちが、どういう人生の積み重ねをしてきたかは
 さかのぼることができる。
 
 そこに答えが見つかるかもしれない、と。
 
 
 
 そしてさらに、こんな話も出てきた。

 レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」で訴えたように
 できるだけ年齢が小さく感性が鋭いうちに
 そういう教育をする必要がある。と。
 
 
 
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・・・この一週間で体験したことは、すべてつながっていて、
私に、「それらの体験から自分なりの答えを見つけよ」と、
訴えかけてきているようにも思えてならない。

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